2020.01.07 更新

言葉で愛を確かめあうと「愛が消えてゆく」

愛し合っているふたりに言葉はいらないというのは、本当のことです。
つきあう前に彼とたくさん喋る……これはお互いのことを知るという意味では、非常に大切なことかもしれません。

でもつきあってしまうと、そうたくさんの言葉を必要としなくなるものです。
そもそも、つきあっているときに多弁になるケースというのは、愛が終わりかけているときでしょう。

愛が終わりそうという空気を感じてしまうと、たいてい、人は言葉をたくさん使います。
よね?
言葉って、本当は少なければ少ないほどいいものです。
たとえば人気の歌手が、中島みゆきさんの「糸」という歌をカヴァーしたこともあってか、カラオケで「糸」を歌う人が増えています。

その「糸」は、きっと多くの人が知っていると思いますが、「タテの糸はあなた」と言っています。
でも、なぜタテの糸があなたなのか?という理由は歌詞に書かれていません。

横の糸がわたしでしたっけ?
なぜ横の糸がわたしなのか?
横の糸があなたで、タテの糸がわたしでもいいのではないか?

答えは誰も教えてくれませんが、かなりの説得力でもって胸に迫ってくる歌詞です。
そうですよね?
秀逸な歌詞というものは、非常にロジカルにできているもので、「論理性をベースに、多くを説明せず、行間を言葉のマジックで大胆に飛ばして」リスナーを説得するパワーを持っています。

つまり「少し喋って」多くを説得するようになっています。

もちろんメロディが言葉の「間合い」を補完してくれているから、そういう言葉のマジックが「効く」ということもあります。

でも、グダグダの歌詞をメロディで補完したところで、ロクな作品にならないもので、やっぱりメロディのヘルプがあろうとなかろうと、歌詞単体で成立している歌詞こそが秀逸な歌詞です。
つまり言葉って、たくさん使えば使うほど、ウソくさくなるのです。
だから愛し合っているカップルは、言葉はさほど必要ではないのです。
反対の言い方をすれば、愛が消えそうなカップルは、言葉をたくさん使います。

「わたしのどこが好き?」
「今でもわたしのこと、好き?」

「おれ、君のこと、愛してるよ」
「ほかに好きな男ができたの?おれのどこがダメなの?おれ、君のことが好きなんだけど」

……などなど。


もっと大胆に言い切ってしまえば、言葉って「ウソ」を少し含んでいるものです。言葉単体が持つウソというより、言葉を組み合わせたときに、言葉はウソを発します。

作詞的なウソ、小説的なウソ……こういうことを、作詞家や小説家はときどき言います。
ウソという言葉をもっとやわらかくして「マジック」と言っている作家もいます。

愛し合っているふたりは、お互いに関してよく気付きますし、あらゆることに敏感になっているから、自然と言葉が持つウソ(というかマジック)を潜在的にであれ知っているので、言葉をあまり必要としないのでしょう。

もっと言えば、会えることに比べたら愛について語ることなんか屁でもないということです。つまり会えることがすべて。彼と会って、黙って並んで歩くだけ……これが「いい恋愛」の本質ではないかと思います。(ひとみしょう/ハウコレ編集部)

(ハウコレ編集部)

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