
「少し寄せるだけなら迷惑じゃない」隣の鉢を仕切り板の下から動かしていた僕
コラム
届くのは板に近い2鉢だけでした。管理会社に言うほどのことでもないと決めて、僕は軍手をはめて隙間に手を入れ続けていました。
排水口を塞いだ土を、割り箸でかき出したのが始まりでした。去年の台風の翌日、僕のベランダの隅には泥水がたまり、水面に見慣れない葉が浮いていました。隣の部屋のベランダから流れてきたものだと、すぐにわかりました。
言えなかった理由
このアパートに越してきたのは2年前です。隣の女性とは、郵便受けの前で一度だけすれ違いました。「こんにちは」と口に出したつもりでしたが、彼女はイヤホンをしていて、顔を上げずに通り過ぎていきました。それきり、話す機会はありません。
去年の台風で、隣の鉢が倒れました。仕切り板の下の隙間から土と葉が流れ込み、うちの排水口が詰まって、隅に泥水がたまりました。管理会社に連絡して隣へ注意してもらうほどのことでもないと思いました。直接言えば、嫌な顔をされるかもしれません。僕は泥水をかき出して、それで終わりにしました。
「少し寄せるだけなら迷惑じゃない」
そのときは本気でそう思っていました。
隙間から届く、端の2鉢
配送の仕事をしているので、天気予報は毎日見ています。次の台風が来る前に、僕は軍手をはめて仕切り板の前にしゃがみました。
板の下の隙間に手を入れると、隣の鉢の底に指がかかりました。届くのは、板に近いバジルとミントの2鉢だけです。どちらも片手で持てる小さなプラスチック鉢で、その奥にある重い陶器の鉢には、指先も届きません。倒さないように底を滑らせ、壁際まで寄せました。こぼれた土の粒がうちの側に落ちるので、あとで掃いておきました。
去年に一度、今年に入って2度、同じことをしました。勝手に触るのが正しくないことは、しゃがんでいる間ずっとわかっていました。それでも、鉢を数十センチ寄せるだけで隣に実害はないと思っていましたし、管理会社を通すより、その方が早いとも思っていました。
呼び鈴を押して断られる場面を想像するより、隙間の方が楽だったのです。
次のページへ
板の向こうの声



























