「まあ、代わってあげればいいのにね」と小声で言った俺が、あの夫婦の前で慌てた本当の理由

コラム

通路の向こうで、何度も首を振る若い女性。その姿を見ながら、俺は隣の後輩に顔を寄せていました。自分の席だけは、譲れない理由があったのに。

膝に載せた鞄の中には、出張資料のファイルが入ったままでした。帰りの列車は混み合い、自由席の車両からあふれた人がデッキにも立っていました。あのとき後輩にこぼした小声が、あんな形で返ってくるとは思っていませんでした。

着いたらすぐ得意先へ

窓側に座るのは、同じ出張帰りの後輩。駅に着いたらそのまま得意先に寄って、提案の説明をする予定でした。列車にいる間に資料を見直しておかなければ、間に合いません。

ところが、鞄のファスナーに手をかけたところで、通路の向こうがざわつき始めました。

年配の夫婦が、通路を挟んだ隣の列の前で足を止めています。通路側の席は空いていて、窓側ではイヤホンをした若い女性が外を眺めていました。夫婦に声をかけられた彼女がイヤホンを外して首を横に振ったところへ、連れの女性が戻ってきます。

首を振り続ける窓側の女性

「自由席がいっぱいなんだよ。若いんだから代わってくれてもいいだろう」

「ここは予約して取った席なので、すみません」

同じやりとりが、すぐ横で何度も繰り返されました。ファイルを取り出すタイミングを逃したまま、鞄を膝に載せて聞いているしかありません。

自分は仕事があるから譲れない。でも、旅行中らしい彼女なら、少しくらい立っていても困らないはず。早く譲ってくれれば、この落ち着かない空気も終わる。そんな考えが頭から離れず、気づけば後輩のほうへ顔を寄せていました。

「まあ、代わってあげればいいのにね」

「ですよね」

後輩の軽い相づちに、少しだけほっとしたのを覚えています。

  • X
  • Line