「お前の稼ぎじゃ無理」と言い切った彼の前で、私が契約者の欄に名前を書いた理由

コラム

膝の上で、バッグの持ち手を何度も握り直していました。ここで引き下がれば、新しい部屋でも私はずっと、住まわせてもらう人のまま。それだけは嫌でした。

不動産会社のカウンターに、2枚の間取り図が並べられました。左は彼の職場から歩いて5分の部屋、右は家賃9万円の部屋でした。私が右の紙に指を置いたとき、隣の彼は左の紙を手元に引き寄せていました。

会計のたびに聞いてきた言葉

付き合って3年になる彼と、一緒に暮らす部屋を探していました。

彼は、お金の場面になると先に動く人でした。食事の伝票も、旅行の宿代も、「いいよ、俺が出す」が聞こえたときには、もうカードが出ている。財布を開きかけては閉じる。そんな動きが、いつの間にか私の癖になっていました。

大事にされているのは分かっていても、並んでいるはずの彼の少し後ろを、ついて回っているようでした。

そんな私が、彼に言わずに始めたことがあります。書店の仕事の合間に、本の紹介文を書く副業です。指名での依頼が増え、書店の給料と合わせれば家賃を1人で払っても暮らせるところまで来ていました。

話さなかったのは、「無理しなくていいよ」と先に言われる気がしたから。きちんと形になってから伝えるつもりでした。

担当者の前で言い切られた一言

右の部屋は家賃9万円、左は11万円。右の部屋だと、私の通勤は乗り換えを2回挟んで1時間を超えます。

彼は左の紙を指先で2回たたきました。

「家賃は全部俺が払うから、俺の職場に近いほうにしよう」

担当の女性がうなずき、「ご契約はお1人のお名前でお願いしております。身分証をお預かりできますか」と続けました。彼が自分の免許証をカウンターに置きました。

私は財布の留め具を外し、自分の免許証をその隣へ並べました。

「私名義で契約させてください」

担当者のペンが止まりました。右の間取り図を、担当者のほうへ滑らせて。

「家賃全部払えるんでこちらの家にします」

隣の彼が、こちらを見ないまま言いました。

「お前の稼ぎじゃ無理」

普段の彼は、私を名前で呼んでいました。その名前の代わりに出てきたのが、「お前」と「稼ぎ」。しかも、初対面の人の前です。

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