小遣いが足りないとこぼしていた俺が、フレンチの会計で「ここは僕に出させてください」と譲らなかった理由

コラム

「ごめん、今は言えない」。言えば済む話だと分かっていながら、俺は妻にそう答えました。けれど、妻の口から続いた言葉は、領収書とは別のことでした。

向かいの席の人は、運ばれてきた皿より先に、並んだナイフとフォークの本数を数えていました。白いクロスのかかったテーブルで、ボールペンを握っているのはその人だけでした。店員が離れるたびに、メニューの裏へ小さな字が書き足されていきました。

義父に頼まれた、娘には内緒の練習

向かいに座っていたのは、妻の父でした。3か月ほど前に電話があり、義母との結婚35年の記念日に、ちゃんとした店へ連れていきたいと相談されました。フランス料理のコースは一度も経験がなく、当日に慌てたくないから、先に練習に付き合ってほしいという頼みでした。

「あいつに言ったら、その日のうちに母さんに伝わるから」

断る理由はありませんでした。練習の会計は俺が持つと決めて、小遣いから毎月1万円ずつ封筒に分けておきました。

俺の小遣いは月3万円。「今月も小遣い足りないんだよな」は、結婚した頃からの口癖でした。半分は本気で、半分は妻に話しかけるきっかけのようなもの。ただ、この3か月だけは本当に足りていませんでした。

レジの前で、財布をしまわなかった義父

当日、妻には帰りが遅くなるとだけ連絡を入れて、店へ向かったのです。パンのおかわりを頼んでいいのか、ナイフはどれから使うのか。小声で聞かれるたびに答えると、義父は外側から使う順番をメニューの裏に書き写していました。デザートが出る頃には、ワインのおかわりも自分で頼めるようになっていました。

会計になると、義父は財布を出したまま引きませんでした。

「ここは僕に出させてください」

結婚の挨拶に行った日から、義父には何かを返せたことが一度もありませんでした。封筒の1万円札を3枚並べ、受け取った領収書は折りたたんで札入れに入れ、そのまま忘れていました。

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