舌打ちした客を叱らなかったが、老人だけに声をかけた理由

コラム

口を開く前に、思い出した顔がありました。運転士になって間もない頃、私の言葉のあとで頭を下げたのは、急かした人ではなかったのです。あの日から、決めていることがあります。

ミラーの中で、両替機の前に立つ男性の後ろに、鞄を持ち直す姿が映りました。私はブレーキを踏んだまま、運賃箱の脇の手すりを目で確かめました。マイクのスイッチに指を置くまでに、少しだけためらいがありました。

早く着いていた便

その停留所には、決められた時刻より少し早く着いていました。先を急いでも、ここで調整のために止まらなければならない便でした。白髪の男性は千円札を両替し、出てきた硬貨を数えては小銭入れに戻していました。その後ろで降車を待つスーツの男性は定期入れを運賃箱の上にかまえ、舌打ちを2度、私にも聞こえる大きさでしました。前の男性は振り返らず、私のほうへ頭を下げました。

「ごめんなさいね、時間かかっちゃって」

思い出した顔

口を開く前に、私には思い出す顔がありました。運転士になって間もない頃、同じように両替に時間のかかる乗客の後ろで、身体を揺らして待っている人がいました。私はマイクで、「お急ぎの方は少しお待ちください」と言いました。急かしている人に向けたつもりでした。

ところが頭を下げたのは、両替をしていた年配の女性のほうでした。

硬貨を入れ終えると、その方は車内に向かって何度も謝りながら降りていきました。それから私が同じ便を担当した日には、その方を見かけなくなりました。別の時間に乗るようになっただけかもしれません。それでも、あの言葉まで自分への注意だと受け取らせてしまったのではないか。そのことが、ずっと残りました。

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