「ありがたいお話ですが、お受けできません」と電話で断った俺→倍近い年収より選びたかったもの

コラム

大手企業からの誘いは、ありがたい話のはずでした。それでも首を縦に振れなかったのは、彼女から聞いた昔の話を覚えていたからです。

印刷所の奥の電話口で、受話器を握り直しました。相手は、取引先の大手企業で採用を担当している人です。数週間前から続いていた話に、その日ようやく返事をすることにしていました。

大手からの誘い

小さな印刷所で働いて、もう何年にもなります。取引先の大手企業が、俺の仕事を気に入って声をかけてくれたのは、少し前のことでした。
届いた封筒の「条件のご提示」には、今の倍近い年収が書かれていました。ただし勤務先は遠くの本社で、残業も多く、何年かごとに転勤もあるそうです。
数字だけを見れば、迷う理由はありません。付き合って3年になる彼女も、きっと喜ぶだろうと思いました。封筒を受け取った日は、帰りの電車で何度も書類を読み返したほどです。

彼女から聞いていた話

それでも、頭から離れない話がありました。付き合い始めた頃、彼女がぽつりと話してくれたことです。子どもの頃、彼女のお父さんは帰りが遅く、転勤も多かったそうです。1人で食べる夕飯がさみしかった、と彼女は笑っていました。
誘いを受ければ、俺も同じように彼女を待たせることになります。それだけは嫌でした。
「ありがたいお話ですが、お受けできません」
電話口でそう伝える少し前に、ガラス戸の開く音が聞こえていました。

次のページへ

ガラス戸の音
  • X
  • Line