
「妻は俺の言うことを聞くんで」と言った俺→座敷の外で先輩に告げたこと
コラム
ふすまを閉めた廊下で、俺は先輩に向き直りました。妻が口にした返事のあと、先輩が何を言い出すつもりなのかが分かったからです。
座敷のふすまを開けると、職場の先輩が奥の席で手を振っていました。妻も一緒にという誘いを、俺は断りきれなかったのです。乾杯のグラスを置いた先輩の顔を見て、何の話が始まるのか察しがつきました。
3週間前に断っていた話
入社したころから世話になっている先輩に、大阪の新しい拠点へ来てほしいと言われたのは、2か月ほど前のことです。
俺は3週間前に、電話で断っていました。妻が、ずっと希望していた企画の担当を任されたばかりだったからです。担当が決まった日、妻は帰ってくるなり「やっと任せてもらえた」と言っていました。
先輩は納得していないようで、奥さんにも会わせてほしいとこの席を用意したのです。乾杯のあと、先輩はこう切り出しました。
「来年の春から、こいつに大阪へ来てもらいたいと思ってるんだ」
「奥さんはどう?」
続けて先輩が妻に話を振ったところで、俺は先に口を開きました。
「妻は俺の言うことを聞くんで」
断ると決めたのは俺で、妻もそれに従う。そのつもりで笑ってみせたのですが、先輩には逆に聞こえたようでした。
妻の返事で先輩が言いかけたこと
「そうか、それなら話が早い」
先輩はうなずき、拠点の場所や住まいの話を始めました。断ったはずの話が、目の前で進んでいきます。
妻は箸を置いて、膝の上で手を組んでいました。
「その話、私はまだ一度も聞いてないけど」
「え、話してないの?」
先輩が俺を見ました。このまま先輩が説明を始めれば、妻はきっと「行こう」と言う。妻がそういう人だということは、誰よりも俺が分かっていたのです。
俺は手にしていたグラスを、テーブルにそっと置きました。
ふすまの外で伝えたこと
「先輩、ちょっといいですか」
立ち上がって座敷を出ると、先輩もついてきました。ふすまを閉めた廊下で、俺は先輩に頭を下げたのです。
「大阪の件は、お断りします。妻には話していません。話せば、あいつは自分の仕事を置いてついてくるので」
先輩はしばらく腕を組んでから、「悪かった。奥さんの前で言う話じゃなかったな」と言いました。座敷に戻る前、先輩は「奥さんには俺から謝る」と付け加えてくれたのです。
そして...
座敷に戻ると、先輩は妻の前で頭を下げました。
「奥さん、今日は本当にごめんね」
俺は冷めた焼き鳥を、妻の取り皿に取り分けるしかありませんでした。何をどう話せばいいのか、まだ決められずにいたのです。
帰りのタクシーでも、窓の外ばかり見ていました。妻に話せば、断った意味がなくなる気がしたからです。
それでも、妻のあの返事を責める気にはなれませんでした。言うことを聞いていたのは俺のほうで、妻の「やっと任せてもらえた」という言葉を、ずっと手放せずにいたのです。
(30代男性・会社員)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)































