両替に手間取る老人に舌打ちが飛んだバス→運転手がマイク越しに言った一言

コラム

運転手の声は、白髪の男性にだけ向いていました。それでも私には、後ろで鞄を持ち直した人への返事にも聞こえたのです。降りていく背中を見送ったあと、車内の空気が入れ替わりました。

小銭入れを逆さにする音が、運転席の脇から聞こえてきました。両替機の前で背中を丸めているのは、手すりを握った白髪の男性です。そのすぐ後ろで、鞄を持ち直す音と舌打ちが続きました。

小銭入れと、2度目の舌打ち

会社へ向かう路線バスの、いつもの停留所でした。私は前方の1人席に座っていて、運賃箱のあたりがよく見える位置にいました。男性は千円札を両替機に入れたあと、出てきた硬貨を数え直しては小銭入れに戻し、また取り出していました。その後ろで降りる順番を待つスーツの男性は、手にした定期入れを持ったまま、2度目の舌打ちをしました。車内で顔を上げる人はいませんでした。白髪の男性は振り返らないまま、運転席のほうへ頭を下げました。

「ごめんなさいね、時間かかっちゃって」

マイク越しの一言

運転手がマイクのスイッチを入れる音がしました。

「お客様、ゆっくりで大丈夫です。お気になさらず」

声は低く、いつもの停留所案内と変わらない調子でした。それなのに、後ろのスーツの男性の定期入れが下ろされるのが見えました。白髪の男性は硬貨を1枚ずつ運賃箱に入れ、最後の1枚を落として拾い、もう一度頭を下げました。

「ありがとうございました。足元、お気をつけて」

私はこのとき、運転手が舌打ちにも返事をしたのだと思っていました。誰も叱られていないのに、急かす空気だけが止まったように見えたからです。

次のページへ

入れ替わった空気
  • X
  • Line